育休に入ってもう2ヶ月経過。育休前は育休入ったらあれもしてこれもして…と夢見る夢子ちゃんだったが現実は厳しい。カレンダーを見てもう2ヶ月経ってしまったのだと実感。結局何もできていやしない。保育園の送迎と離乳食と部屋の掃除、洗濯で一日が終わり、今日は何したっけ?今週何したっけ?今月何したっけ?の繰り返し。英語の勉強して、財務の勉強して、マーケティングの勉強して、なんて思っていたのに。育児の為にお休みをいただいているので今の生活が当然でしょ?と言われればそうなんですけれど。
そんな育休生活の中で悩むのが会社とのつきあい方。キレイさっぱりと距離を置くのも過度にべったりと近くするのも私次第。たまに職場に挨拶を兼ねて赤ちゃん連れで来る人もいるが、典型的な大和魂の私にはできない。背広という戦闘服をまとって日々闘っている戦場に乳飲み子を連れていくなんて。職場の志気を下げ、モラルを下げ、ひいてはお客様へのサービスの質を下げ、売上げを下げ、給与を下げることにつながるのではないかと。本当は恥ずかしいだけなんですが。チヤホヤされたことなどないのでたとえ息子でもチヤホヤされるのが恥ずかしい。恥の文化で生まれ育ってきた身にはつらい。もちろん後輩が赤ちゃん連れて来たときは喜び勇んで顔見にいくし、先輩パパさんとしてのプライドで必死にあやすし、赤ちゃん効果で職場が和やかになって確実に生産性はあがるのにいざ立場が変わると私にはできない。オフィシャルにオフィス解放とか社食解放とかやってくれれば堂々と子連れで行けるのに。やっぱり大義名分がないと動けない私。当社は社食と線路の高さが同じなので解放してくれれば子どもは喜ぶはず。私たちにとっては日常だが、新幹線を同じ高さで眺めながらご飯が食べられるというのはなかなか味わえない。
前回の育休中はとにかく孤独。今は保育園仲間がいるのでなんだかんだで孤独ではない。送迎時にパパママ友と雑談するだけでもだいぶ違う。前回の育休時の職場は年末年始の繁忙期、年度末の繁忙期に加えて団交用資料の作成と下半期はとにかく忙しい時期だったので申し訳なくて連絡をとる気にもなれなかった。人事部は育休中のママさんとは面談もあったようだが私にはなし。男性にはないんですか?と聞くと「男性育休者の前例がないので予定はないです。もちろん希望があれば受け付けますよ。」と言われてしまう。前例主義万歳である。会社の情報は親しい同僚から個人的に得るしかなかった。
そんな中、当社もこの下半期から産休育休者用のSNSを導入した。通達やお知らせ、社報は適宜アップされるし、ビデオ研修も受けられる。当社にしてはずいぶんと未来的なことをやってくれた。専用の掲示板も作成されたので情報交換もばっちり。掲示板の内容は会社がチェックするものの、理解のあるママさん管理職なので基本的にはこちらの味方。よっぽどのことでもない限りは偉い人達に報告するようなことはなく自由にワイガヤでとのこと。これでハコは整えた。後は盛り上がるだけだと会社は想定しているんだろう。ダイバーシティ万歳。しかし、残念ながらまだびっくりするくらいに盛り上がっていない。盛り上がるもなにもそもそもの参加者が少ない。対象者は多いもののSNSへの参加者が少ない。育休中くらいは会社のことなど忘れたいということなのだろうか。それともこれが世に言うSNS離れなのか。子どもの紹介も兼ねた自己紹介以外はまったく投稿なし。完全に肩透かし状態。どうすれば盛り上がるのかと担当者にこっそり相談されてしまうほど。
育休中はどのように会社と付き合っていくべきなのだろうか。たぶん理解ある会社、職場なのでオフィシャルには育休=悪ではない。ただ、部署によってはママさん社員とそうでない社員の間に小さな亀裂はあるみたい。資生堂ショックほどではないものの時短社員や保育園からの呼び出しを受けた社員の業務を他の社員がやらざるを得ない状況。誰も悪くないだけにそういった話を聞くとつらくなってしまう。人格的にどうなの?って人にはひとりも遭遇したことのない会社なので悪い人はいないはず。伝え方やコミュニケーションがかみ合わなかっただけに残念。
結局、ネットワーク理論を用いるまでもなく、弱いつながりを増やしていくのが一番なのだろうか。広く浅く弱くコミュニケーションしていくのがちょうどよい。前回の育休時から5年経ち社内でもそれなりに人間関係が広がった。しかも育休キャラのおかげで勝手に家庭優先、子ども優先となり正に浅く広く。さらに現職場は上司含めて付き合いが長い人が多く気軽に連絡をとりやすいという幸運に恵まれている。この好機を逃すわけにはいかない。会社と距離を置きすぎるのも寂しいし、仕事やキャリアについて客観視できるチャンスなのにべったりするのも気持ち悪い。育休生活も2ヶ月を経てだいたいのリズムはつかめてきた。11月からは「広く浅く弱く」をテーマに会社とつきあっていきたい。それにしても大義名分ではないが、標語なり何か指針がないと動けないところが典型的な大和魂である。