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月→土勤務の外資系風バリキャリ妻と結婚。2012年度、2017年度と2回育休を取得。育児ブログです。

流れに便乗して20年前の大学受験を振り返る。

はじめに。

昨今の育児ブログ界隈で話題になっている受験振り返りシリーズ。

www.tonarinotororodesu.tokyo

受験について深く考えさせられる壮大なお話や、

www.tsumako.com

とにかく波瀾万丈すぎて朝ドラ化を切望したくなるお話や、

www.charumen.com

受験は関係ないものの関西あるあるなのか、お人柄なのかとにかく抱腹絶倒のお話まで人に歴史ありと面白楽しく読んでいた。共感できる部分、ただただ圧倒される部分が多く、とにかく惹きこまれていく。読みながらふと自分自身を振り返ってみる。再現VTRを作ってもおもしろくもない平々凡々でnot波乱万丈な思い出しかない。しかし受験シーズンの思い出として流れに便乗してみた。

 

志望校決定までのいきさつ。

本当に行きたかった大学。

私の出身大学は東京だけど都内ではない、都心とは5℃違う立地の某総合大学。真冬だと家を出る時の小雨が大学到着時にはみぞれ、もしくは雪に変わっているような環境。冬はつらいものの緑あふれるいい場所で、春は桜がとても綺麗だった。花見シーズンに学内で各種サークルが新人歓迎会を行うのが春の風物詩。とても賑やかな若者の声と近づいてくる急性アルコール中毒を救うためにやってくる救急車のサイレンの音が今も耳によみがえる。愚直で真っすぐ、質実剛健な雰囲気の母校、チャラチャラしていないところが私には合っていた。
しかし、受験を意識しだした頃の志望校はまったく別のところだった。今夜もブギー・バック風に言えば「心のベスト10第一位はこんな大学だった~。国学院大学文学部日本文学科~」ってな具合に、国学院大学文学部に進学して古文の世界を勉強したいと思っていたのである。

 

なぜに日本文学なのか。

きっかけは高二の古文の授業で読んだ「蜻蛉日記」。その内容があまりにも衝撃的すぎて驚いてしまった。「日本人って千年も前から同じようにうじうじ、ぐちぐちしているのかよ。」と授業中に笑い出してしまったのを今でも覚えている。それくらいに衝撃的だった。母の境遇が藤原道綱母と似ていたこともあり (あくまでも境遇であり、身分や美貌は別)、毎晩のように聞いていた母の恨みつらみや愚痴と同じようなことを千年も前の人が言っていることがあまりにも面白かった。その時に人間は本質的に不変であるとしみじみ感じたものだ。文明がどれだけ進化して豊かになっても結局悩むところは夫の浮気や子どものことなのかと。蜻蛉日記の世界感、どちらかというとスケールの大きさよりもその小ささにはまり、それを機に古文の世界、特にいにしえの色恋の世界に興味を抱くようになった。源氏物語を読みながら「あさきゆめみし」を読んだりしていたものである。そしてどうせならばもっと深くディープな世界を学んでみたいと日本文学の最高峰のひとつである国学院大学文学部を心のベスト10第一位にしていた。

 

現実に打ちのめされて経済学部へ。

漠然と志望していた国学院大学。しかし、あっさりと現実に打ちのめされた。その程度と言われればその通りなのでダンコたる決意があったわけではないということでもある。父に大学受験はどうするかと問われたので、「国学院大学文学部に行きたい」と回答するとあっさりと拒絶。ありきたりの「文学部行ってどすうるんだ?どこに就職するんだ?」と厳しく言われる。「家にいないくせにうるさいな。勝手だろ?」とは思ったがバジェットを握っているのは父。奨学金を目指してまでの覚悟はなかった。
大学受験に関して父から言われたのは2つ。
①MARCH以上(当時はマーチなんて呼称はなかったが)の大学の経済学部、商学部、又は社会系の学部

②学費は20歳までしか出さない。
高卒で金融業界に就職し、大卒ばかりの中で部長職まで昇進していた父親。きっと苦労したことや思うところも多々あったのだろう。今ならば多少は理解できるが、当時はただうるさいだけであった。
ここから現実的な志望校選びが始まった。青学や立教は立地がお洒落すぎるし、なんだかキラキラしていそうなのではなからパス。そんなところに行っても浮くだけなのは目に見えている。当時の私はコミュニケーション能力が今よりも低かったので、キラキラ星人を前にしたらきっと固まっていただろう。
青学と立教は除外して各大学の校風と学費に通学定期券代を加算した固定費を考慮して大学を選定していく。こうやって書くと消極的理由のようであるが、母校は家から通える範囲であったし、オープンキャンパスで体験した限りでは校風も合っていたし、指定校推薦で友人の入学も決定していたので後悔は全くない。むしろ本当に行きたかった大学であるが、優柔不断な自分を納得させる為に理由付けしていたようなもの。生まれ変わっても母校を受験するだろう。ただ、都内に住んでいる今の立場だと通学が遠くなってしまったので、息子に勧めるかと問われたらちょっと考えてしまうかも。

 

大学受験の思い出。

高三の5月までは部活で忙しかったので本格的な受験勉強は引退してから。その為か模試では常にD判定でたまにC判定。しかし、あまり気にすることはなかった。志望校ありきで勉強していたので模試には一喜一憂せず。出題形式が異なるので模試の結果にいちいち反応していても意味がない。勉強の前にはまずは戦略。地図がなければ遭難するだけ。主な勉強はひたすら赤本。予備校の授業で広く基礎的な体力をつけ、自宅学習で赤本を中心にして技術力をつけていった。量より質作戦ではあったが、その質だけとっても夏休みや土日は最低10時間は勉強していた。人生に一度くらいはただただひたすら勉強だけをする時期があってもいいと振り返って思う。もう二度としたくないけれど…。

受験勉強のブレイクタイムは古文の問題を解く事。古文の問題って程よい長さなので息抜きにちょうどよかった。読書をする感覚で軍記物や恋愛物、随筆等を解いていく。クスリと笑わせられたり、痛快な話だったり、人生訓的な深い話をだったりとショートショートを読む感覚で楽しみながら勉強していた。

受験費用の予算は20万円だったので5大学6学部(3万×6)を受験。志望校ありきの勉強法だったので併願で受けた他の大学2校は手ごたえなくあっさりと不合格。しかし基礎的な力がついていたのか、いわゆるすべり止め2校はびっくりするくらいに余裕で合格。そして、志望大学にも経済学部、商学部と両方受かることができたのだった。


大学生活の思い出。

行きたい大学だったので真面目に行っていたし、当然のごとく授業も出ていた。ただし家から1時間半という近くはない距離だったので当初所属していたテコンドー部にも次第に足が遠のき、活動の拠点は地元に。母校のハンドボール部のコーチをしたり、学費の為もあってアルバイトを3つかけもちしたりとそれなりに忙しくも楽しい毎日を過ごしていた。家から大学まで電車だと90分だが車だと40分くらい。4年生になると車でのんびりと通学していたのがいい思い出である。
卒業論文のテーマはマニアックに「神奈川県相模原市と東京都町田市の越境合併について」。
境川という竹取の翁と同じくらいに安易で平易な名前の小さな河川で区分けされている相模原市と町田市について、生活圏や文化圏、歴史的背景を基に合併したらおもしろいんじゃないか?といったテーマで卒論を書いた。「境川!?」とピンと来る人も何人かいると思うが、そうです。あの境川です。

 

おわりに。

受験時代を断片的に思い出すことはあっても流れとして振り返ることはなかなかない。おかげで受験時代を整理することができた。いつか息子に相談された時に役立つ日がくるだろうか。ひたすら勉強していた受験時代だが、あれはあれでいい経験になっている。努力や苦労ってのは相対評価ではなく絶対感覚という持論があるので、「私の方が~」「私なんて~」と他人と比較することはしない。ただただつらかった。しかし、とにかくやりきったという自信はついた。しなくていい苦労はしなくていいとは思うものの、息子たちも中学受験なり、高校受験なり、大学受験なりのどこかのタイミングで最低でも一度くらいは本気で勉強してもらいたい。
と、受験に関する思い出はつきないものの、妻の受験話を聞くとレベルというか次元が違う世界なので東京は凄いなと思うのだった。選択肢が多すぎるのも考えものか。
ちなみに、文学への熱はどこにいったのか。古文の世界を通して民族信仰や宗教観に興味を持つようになり、民俗学や文化人類学の本をよく読むようになっていった。近所の大学の社会人講座でお伽噺草子や日本の昔話と西洋の童話との共通項や違いについて学んだりとその後につながっている。私のブログ内の文章の中でアニミズム的な考えやハレとケの概念、勧善懲悪な世界観がやたら出てくるのは古文の世界が原因かもしれない。勉強ってのは意味があるかないか、役に立つか立たないかといった視点じゃないとつくづく思う。